2015年8月18日火曜日

Take On Me (a-ha)

「魅せる」MVのルーツ

数年前「泣くなはらちゃん」というドラマがありまして、漫画の世界と現実世界が繋がって作者の女性(麻生久美子)と漫画の主人公(長瀬智也)が恋に落ちるという内容で、僕の大好きなドラマの一つですが、あれを思い出させるMVです。
 言っていることがわからなくても、MVを観ているだけで楽しめます。
 ちなみにMVにアニメーションとストーリーを組み込んだのはこの曲が初めてだとかなんとか…。
(勉強不足ですみません。汗)
 
 今回の解説ではちょっと真面目に、英語圏の文化的醸成のある人たちと我々のような別の文化的下地を持つ人間の英語センスの違いについて考えてみたいと思いますが、まずはこの素晴らしいMVをごらんあれ!



(verse1)
We're talking away
I don't know what
I'm to say I'll say it anyway
Today's another day to find you
Shying away
I'll be coming for your love, OK?

(chorus)
Take on me, (take on me)
Take me on, (take on me)
I'll be gone
In a day or two

(verse2)
So needless to say
I'm odds and ends
I'll be stumbling away
Slowly learning that life is OK
Say after me
It's no better to be safe than sorry

(chorus)
Take on me, (take on me)
Take me on, (take on me)
I'll be gone
In a day or two

(verse3)
Oh the things that you say
Is it live or
Just to play my worries away
You're all the things I've got to remember
You're shying away
I'll be coming for you anyway

(chorus)
Take on me, (take on me)
Take me on, (take on me)
I'll be gone
In a day
(Take on me, take on me)
(Take me on, take on me)
I'll be gone (take on me)
In a day



(verse1)
君と語らいあって幾星霜
なんて言ったらいいかわからないけれど、いい加減とにかく言わなくちゃ
今日は君と出会った特別な日なんだ
こんなこと言うの、尻込みしちゃうけれど
君の愛に溺れてもいいかい?

(chorus)
僕を受け止めてよ
等身大で受け止めてほしいんだ
あんまり放っておくと
2,3日もしたら僕は行ってしまうからね?

(verse2)
そう、いうまでもなく
僕は「半端者」さ
でもつまづきよろめきながらも
一歩づつ進んでいく、それが人生だろ?
さあ、君も言ってごらん


(chorus)
僕を受け止めてよ
等身大で受け止めてほしいんだ
あんまり放っておくと
2,3日もしたら僕は行ってしまうからね?

(verse3)
ああ…
君が僕の憂いなんてそっちのけで言うことは
真実?それともただの戯れかい?
いろんなことがあったけれど
覚えていられるのは君のことだけなんだ
君は尻込みしているけれど
とにかく僕は君のそばに行ってみせる

(chorus)
僕を受け止めてよ
等身大で受け止めてほしいんだ
そうでないと…
(僕を受け止めてよ)
(等身大で受け止めてほしいんだ)
あんまり放っておくと
2,3日もしたら僕は行ってしまうからね?


*あんまり油断していると、横から誰かに取られちゃうかもしれませんよ?

文化的下地の違いによる英語センスの違い

 巷では「このアーティストは英語のネイティブじゃないから歌詞が独特」とか「歌詞を訳すのに苦労する」などと言われる事が多々有るようです。
 確かに「キレイな文法」ではありませんし、解釈において感性の部分に委ねてしまう箇所も多いです。しかし、音楽は「歌詞」だけで伝えるものではありませんし、「何かを伝えよう」という者がそれを表現する芸術の一種としてそれを捉えるのであれば、文法などそれほど重要なことには思えませんし、解釈にもそれほど困らないように感じます。

 「気持ち」は定量化・一般化・定義化できるものではありませんし、それを汲み取ろうとすれば必然的に論理よりも感性が先に立つものではないでしょうか?
 私自身、特にセンター対策の授業においては「感覚は捨てろ」「根拠立てて選択しろ」という方法論ばかり嘯いていますが、やっぱりあくまでそれは「方法論」に過ぎないんですよね。(理屈でがんじがらめになって「気持ち」というものを蔑ろにしてしまいがちだった自分への自戒の意味もあります。)

 「この人はだれに、何を伝えたいんだろう?」という根本的な部分に立ち返って、辞書でもグーグル先生にでもなく「自分の心」に問いかけてみることが大事です。解釈にも人間関係にも、逃げ場を求めては素敵なものは築けませんよね。

 少し脱線しましたが、まとめるならば「文化的下地の違いは確かに英語の表現・あるいはその含有するニュアンスにおいて曖昧さや想像の余地を生むが、我々はそれを意思と意志の表現技法の一つとして味わうことができる」といった感じでしょうか?笑

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